2000年3月、北日本旅行報告(4) 〜  雪中山形編 

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< 2000年3月8日 水曜日 雪 山形にて >

■ 国立山形大学(小白川) へ

宿を出て、県庁へ向かう道を東へ歩いていると雪は止み、 白い山々が前方に姿を現しました。
雪山といっても近づきがたい岩山ではなく、樹木の生えた身近な里山といった趣の山です。
街頭の地図を見ると、国立山形大学(小白川)はもう少し北にあるようですので、 大通りから逸れて、古い町並みの径を行くことにします。

瓦屋根の続く町はとても静かで、雪解けの水音だけが響いています。
校舎風のコンクリ−ト建築を見つけて近づいてみれば、小学校でした。いったい、国立大学はどこに?
東側にも、木々に混じってコンクリート建築の頭が見えています。 落ち着いた色合いが何となく大学風ですので、歩みを速めてみます。

果たして、大学の建物でした。山形大学の小白川キャンパスです。
ここには、大学本部と人文学部・理学部・教育学部が集まっています。(工学部(米沢市)・農学部(鶴岡市)・医学部を除く)。旧制山形高と山形師範を継承する学部でしょう。

校門をくぐると、東に向かって伸びる銀杏並木の道が目に入りました。その両側に、落ち着いた色合いのアカデミックな雰囲気の建物が並んでいます。
しかし、どう見ても戦後の建築ばかり。ここも埼玉大学と同じく、旧制とは無関係のキャンパスなのか?
(注: 旅の時点ではまだ、私は旧制山形高がこの場所にあったことを知りませんでした。周囲は 「水村」 と呼ぶにはあまりに都会化していましたので。)

[山形大学銀杏並木 63.9KB] 国立山形大学の銀杏並木 (JPEG、63.9KB)

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あまりに寒いし、旧制学校について多少の手がかりを期待して、並木の北側にあった大学生協の店舗に入ります。新潟大学では、生協の食堂に50周年記念誌が置いてあったのでした。
しかし、そこは大学生協の仮店舗でした。売店までの通路にはコピー機が置かれ、学生がせっせと資料のコピーを取っています。コピー機の周りの壁や床には、旅行やコンタクトレンズのパンフレットがてんこ盛り。
それらの間を縫うように歩いて、売店に入ります。
売店に、何らかの 「大学グッズ」 があることを期待したのですが、どうやら大学名入り100円ライターしかないようでした。周年記念誌はおろか、都立大のような絵葉書、横浜市大のような便箋もありません。(私の母校にも、「ICHIDAI」Tシャツがあります。ってあんなもん、誰が買う?)
仕方ないので、ここは店を出ます。
どこかに、本店舗があるはずですから。

銀杏並木に沿って奥へ進むと、生協の本店舗が右手にありました。体育館などもあるようです。
近づいてみますと、何やら養生シートで被われています。
生協から体育館にかけての一帯は、(年度末予算消化のためか) 工事中で入れなくなっていました。
なるほど、これで仮店舗に移っているのか、と納得。
体育館の脇で工事を見ていると、突然、激しい雪が舞い始めました。
急遽次の標的、図書館に移動することにします。

(注: 実は、この生協と体育館の間を奥へ進んだところに、旧制山形高等学校の建物の一部が保存されているのだそうです。後で埼玉に帰ってから知りました。)

附属図書館は、タイル貼りの落ち着いた建物。
中へ入ろうとして唖然。カード式のゲートが設置されているではありませんか。
ああ、やはり気前が良いのは新潟大学だけだったのか......。
外に出ても雪が激しいし、私は近くに積まれていたイスに腰かけるなり眠ってしまいました。

1時間後。
目が覚めて窓を見ると、まだ雪が降りつづいています。このままでは、また山形泊になってしまいますから、 己の尻を叩いて大学を出ることにします。

[雪の山形大学 53.1KB] 雪の山形大学 (JPEG、53.1KB)

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■ 馬見ヶ崎河畔をゆく

大学前の道を北へゆくと、突然視界が開け、大きな橋のたもとに出ました。
馬見ヶ崎川です。「日本一の芋煮会」 で有名な河原は、一面の雪で白く光っています。
川の向こう側(東側)には、白い肌に産毛を生やしたような山々が連なっています。
旧制山形高生が見た冬景色もこんな景色だったのでしょうか。

「ここぞ東亜のモスコーに
スキーの群は雪に浮く」
      − 阪本越郎 『嗚呼乾坤』(旧制山形高 大正十二年全寮寮歌)より

浮かんでくるのは、この歌ばかり......。
(「駿馬を立つる馬見ヶ崎」 は夏の部につき割愛)

[馬見ヶ崎川 27.6KB] 馬見ヶ崎川 (JPEG、27.6KB)

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ウド鈴木(山形出身?)が 「ポケビ」 で歌ったのはこの河原だったか? とか、
「芋煮会」といえば、「毒物カレー事件」 の年(1998年) も危ぶまれながらも開催されたんだったな、 などと
風情もへったくれもないことを思いながら、歩道の未整備な川沿いの並木道を下ります。


■ 山形城址へ

市内の道路は除雪され、雪は歩道や路肩に積まれています。 これでは車はよくても、歩くほうはたまったものではありません。(地元の人は、雪の季節は徒歩で出かけないのかも)
山形の道路も埼玉並みか、などと山形に失礼なことを思いながら歩いていると、
タイル貼りの立派な歩道のある大通りに出ました。

古くからの碁盤の目状の市街地に出たようです。
実は、この一帯には近代建築が結構残っているそうなのですが、ガイドブックを読まなかった私は ただひたすら山形城址を目指して南下しました。
そろそろJRの西側に出ねば、と
陸橋を探しているうちに、しっとりとした古い街並に迷いこみました。細い道をうねうねと行く先に、 小型車が辛うじて通れるぐらいの小さな跨線橋にぶつかりました。

[山形城の濠 21.9KB] 跨線橋より、お濠を望む (JPEG、21.9KB)

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跨線橋の下には、JR奥羽本線のレールが銀色に光っています。
2本×2組。複線か!? と目を凝らすと さにあらず、線路の幅が明らかに違います。 在来線(奥羽本線)と山形新幹線が併走しているのでした。架線の電圧はいずれも交流2万ボルト、即死も可能です。
(九州・北陸・東北・北海道のJR電化区間は、交流2万V が大半だったはずです。珍しく、仙石線は直流1500V のようですが)

線路の西側は、ずっと山形城のお濠が続いています。丁度この跨線橋のあたりが北のはずれに当たるようです。
お濠に沿って歩くことにしました。

お濠の周りには、ほとんど人がいません。(平日の昼だから当然なのですが)
その代わり、水面にはたくさんの青首鴨が浮いています。寒さをものともせず、ツーーイ...と優雅なものです。
何枚か写真に収めようとしましたが、満足な撮れ具合のものは一枚も無し......。
とても静かなお濠を後にし、城壁の内側に入ります。

ここ山形城には、天守閣などは残っていないようでした。
見所は、お濠の桜!? まったくのシーズンオフではありませんか。
城壁の内側はかなり平坦で広く、運動公園や体育館が整備されています。運動場の間を貫くように、 涼しげな銀杏並木(記憶違いならすみません)が伸びています。
しかし、ここも残念なことに、年度末の予算消化のためか、随所で工事中でした。

北門で見た案内図では、旧県庁(たしか)の建物が城内に移設・保存されているとの ことでしたので、東の方、東の方、と念じながら移動しました。
が、体育館の辺りで四方を工事現場に囲まれてしまい、
辛うじて抜け出した先には、非情にも東側の濠の土手が立ちはだかっていました。
どうやら道を間違えたらしい。

と、土手の傍らに、風変わりな洋館が鎮座していました。
古めかしい文字で、「濟生館」(本当は右から左) と看板が出ています。

[濟生館 35KB] 濟生館 (JPEG、35KB)

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どうやら、これは明治初期に建てられた病院建築のようです。
「濟生」(= 生命を救う) の名を冠した病院は各地にありますが、これほど病院らしくない建物は初めて見ます。
(余談ながら、「経済」(= 「経世済民」、世を治め民を救う) の名を冠した学部ほど、世を治めず民を救わなかった学部もないでしょう。特に、K都大とか母校のような 「マル経」 のところ。マル経解体!)

入り口の看板を見ると、入館するのにお金が要るようです。
とりあえず、寒い山形からさっさと脱出したかった私は、入館せずに素通りました。
脛まで潜る雪を踏みしめ、お濠端の土手の上に出て、駅の方へ向かいます。

土手なりに進み、南門から城外へ出ます。
平日の午前ですから、駅の方から城へ来る人は皆無です。門前の売店で雪見大福を買って、ひととき休憩します。
雪解けでぬかるんだ路肩を行くこと約10分、再開発工事中の駅前(西口) に出ました。
どうやら、高層住宅その他が建つようです。店舗も入るか?
東口の 「ビブレ」 が潰れるほどの消費不振なのに、また建ててどうする!? しかも東京資本の○成建設で!
余計心が寒々として駅の階段を昇ります。

正午です。時刻表を見ると、仙台行きの仙山線の出発まで、あと40分ほどあります。
この間に腹ごなしを、と駅の階段を降りようとして、駅前の電光掲示板に目が釘付けになりました。
曰く、

「東京・営団地下鉄中目黒駅・トンネル内で電車衝突、死者2名ケガ人多数」

......中目黒といえば、私が営団の面接を受けて落ちた直後の 1992年6月ごろにも衝突事故が起きたな、確か。
でも、あの時は折り返し用の引き込み線での事故だから、乗客の被害は無かったはず。
......それにしても、新幹線も都営地下鉄も、昭和時代は鉄道側の有責事故による死者は無かったのに、
平成に入った途端、(乗客をドアに挟んだまま発車し)死亡事故を起こしている。ついに営団も安全神話崩壊か。......

ますます寒々とすることが頭を駆け巡り、満員の待合室に入ります。
確かテレビがあったことを思い出したからです。
......しかし、放映されていたのは 『ひるどき日本』(NHK) でした。だめだこりゃ。

ホームに仙台行きの快速電車が入ってきました。直ちに乗り込みます。 さっさと仙台に行って夕刊紙を読むのが一番と思ったのです。
12:41、満員の乗客を乗せて山形駅を発ちます。
ふと、山あいの駅から窓の外を見れば、岩の断崖の上に和風建築が。それは松尾芭蕉の俳句で有名な山寺でした。 吹雪のなかに聳えるそれは、蝉時雨の俳句とは全くの世界であり、(以下略)。

そんなことはどうでもいいから、さっさと東北帝大に行きませう!


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