やっと火曜日になりました。今日こそは、県立図書館に行かねばなりません。
外はあいにく氷雨まじりの天気で気が進みませんが、12:09の列車で新潟駅を出発しなければ、
今夜 山形で安眠できるかどうかが怪しくなります。冬の山形で野宿だけは避けねばなりません。
(なんだか、「ねばならぬ」式の文章ばかりになってしまいました。)
午前中に、資料採集を終えて撤収することが必須です。
バスを降り、鳥屋野潟湖畔の図書館に近づくと、熱線吸収ガラス越しに、蛍光灯の光がうっすらと見えました。大丈夫、今日は開館しています。
中に入ると、平日の午前だというのに、結構多くの人が来館しています。
ここも、大阪府立図書館と同じように、手荷物・外套はロッカーに入れる決まりになっていました。筆記用具だけを持ってゲート内に入ります。
まずは、開架図書から攻めます。
郷土図書のコーナーで、「教育」「音楽」 のジャンルを探しました。
すると、旧制新潟高の寮歌集は無いものの、『吉田千秋 「琵琶湖周航の歌」 の作曲者を尋ねて』(森田穣二著) なる本が目に留まりました。
『琵琶湖周航の歌』(旧制三高) の原曲が吉田千秋氏の作曲であることは、多くの文献に指摘されていますが、その吉田千秋氏がどんな人だったのかは殆ど書かれていません。早速パラパラと読んでみました。
同書によれば、
吉田千秋氏(注:男性) は明治28年 [1895年] 生まれの新潟県育ちで、大正4年 [1915年] に 『ひつじ草 (Water-lilies)』(外国詩人の訳詞に作曲) を発表します。
この曲が、『琵琶湖周航の歌』(大正7年 [1918年] 作) に使われたのです。
しかし、吉田氏はその後すぐ(大正8年 [1919年])、24歳で夭折してしまいます。
この件については、平成12年 [2000年] 5月28日付の讀賣新聞日曜版にコラム(『うた物語』) が載っていたように思いますので、お読みになった方も多いことでしょう。
「教育」 のコーナーを見ていると、新制国立新潟大学に関する本が何冊か目に入りました。昨日実物を見てきたばかりですから、興味があります。
● まずは旧制医科大学だった医学部の歴史書を。 −
扉の写真を見て、木造だったらしいことを知ります。どうりで旧制の校舎が残っていない訳です。(戦災で失われたのか、校舎改築のため消えたのかは調べ忘れました。)
● 次に、新潟大学の現状レポートの本を。 −
やはり、というべきか、地方国立大学が抱える問題を同様に抱えているようですが、
私が注目したのは、「新幹線教授」 という言葉でした。普段は東京で活動していて講義のときだけ新潟に来る教授のことですが、「東京の出張所」たる新潟を象徴する現象のように思えました。(もちろん、私の母校(大阪)にもそういう教授はいましたが。)
昨日 五十嵐キャンパスを訪問したときに微かに感じた、大学と街との間の距離についても、やはり指摘されていました。
地元予備校のポスタ−からして、医学部以外は特別のターゲットに置いていないのですから。文句なしに地元の最高学府なのに。(地元受験生の顔が東京の方ばかり向いていることを感じさせます。)
● 高校の校史では、「有恒高校百年史」、なるものが......。
おっと、これでは 「寮歌集」 を借りる時間がなくなってしまいます。
「寮歌集」は開架図書に無いようです。
そこで、蔵書を検索することにしましたが......、どうやらコンピュータで検索するシステムのようです。
検索用端末を操作すると、独自のブラウザが作動して、 WEB ベースで検索結果を教えてくれます (インターネットには接続できないようになっています)。
「六花会」「六花寮」 をキーワードに検索をかけると、数冊の寮歌集が列挙されました。
遊閑斎さんのメールによれば、
私が探している寮歌集には他校のマニアックな寮歌 (満州医大予科『校歌』 や 成城高『瀛州離歌』など) も載っている、ということですが、果たしてどれでしょうか?
検索結果の中から、1935年版と1985年版を選んで、借りてみることにしました。
どうもそれらしいのがないので、単に一番古いのと一番新しいのを選んでみたのです。(というより、在庫がその2冊しかなかったような気がします)
窓口で対面したそれは、大層年期が入っていました。
1935年といえばざっと65年前の本です。気をつけながら表紙を開きます。すると。
1935年版の楽譜は、恐怖のハーモニカ譜でした。音階と音長を、数字と線だけで表した楽譜です。
すぐに、旧制高校生は当時最高のエリートだった、という事実を思い起こしました (普段は、どうしても 「馬鹿になれ、裸になれ」の面だけが脳裏に浮かんでしまうのです)。
目次を見るかぎり、他校の寮歌は載っていないようです。
それではと、以前から気になっている 『あくがれてこし丘の上や (春日歓燕二部曲)』(大正10年 [1921年] 山田定雄作詞、斎藤正直作曲) の楽譜を見ることにします。
この曲は、当時宝塚から引き合いがあったという伝説通り、寮歌らしからぬ垢抜けした曲ですが、私が持っている 『日本寮歌集』 の譜では最後が第1音で終わりません (第5音で終わる)。1935年版の楽譜ではどうなっているのでしょうか?
数字譜を解読すること約30秒、非情にも、最後は第5音で終わっていました。つまり、私が持っている楽譜通り、ということになります。
第1音で終わらないのは伝承の誤りではなく、音楽学校出の作曲者の意図通りと考えてよさそうです。
それぞれの寮歌には、「○短調」 というように調号が指定されています。
ここで気付いたのですが、#や♭のついた音は、小学校で使われるような普及型のハーモニカでは出せません (「ミの#」とか言い出さぬこと。もちろん半音の出せるハーモニカはありますし、名人は普及型でも半音を出せるそうですが)。
しかし、いわゆる 「ヨナ抜き音階」 の曲なら、(ハ長調・ト長調・ヘ長調・イ短調に移調すれば)そうした特殊な音を使わずに済みます。
「ヨナ抜き音階」 の唱歌や寮歌が多かった理由の一つに、案外そんな事情もあったのではないでしょうか。
(余談ですが、"垢抜けした" 『あくがれて』 はヨナ抜き音階ではありません。)
さて、もう一冊の方も見ることにします。
大丈夫、1985年版は五線譜でした。しかし、やはり他校の寮歌は載っていないようです。
ううむ、成城高 『瀛州離歌』 の楽譜を見る、という今回の旅の目的の一つは、こうして潰えたのでした。
(やはり、東京の成城学園に乗り込むしかないのか? 猛烈にイヤだけどあんなハイソ(死語)な学校(笑)。)
仕方ないので、『頌春の歌 (生誕ここに)』 あたりを見ることにします。すると。
現在の譜と1935年版?の譜とが併記されていました。
原譜との違いで有名なのは、「若き誇りの」と歌う際の 「き」 の音にフェルマータが付く(余計に長く延ばす)ことですが、
ほかにも、「せいたんここに ひととせとー」 の最後、「とー」と伸ばしながら一音下げるところ、旧譜は音を下げない、という違いもあることがわかりました。
もう時間がありません。
すぐに図書館を出て、やってきた新潟駅前行のバスに乗り込みました。今日は少し早いせいか高校生はあまり乗っていません。それでも古町を通過したあたりから、高校生が増えてきました。
駅前ビルの地下でさっさと食事を済ませ、新潟駅の改札を通過します。
白新線ホームに着くと、12:09発村上行の真新しい電車がホームに辷り込んできました。下校する高校生が大挙して乗り込みます。
仕方ないので、私はドア横で立ち乗りです。
激しい雪の舞う中、電車は新潟を出発しました。市街地を抜けると、たちまち辺りは銀世界となりました。温暖化しているのは、新潟市街地だけのようです。
大勢いた高校生たちも、豊栄(トヨサカ)を過ぎるころにはぐっと減っていました。なぜか私の頭の中では 官立神戸高商校歌 『商神』 が鳴り始めました。「とよさか」 につられたのでしょう。
新発田(シバタ)に着くと、電車はすっかりローカル鉄道然としてしまいました。私もようやく座席に座れます。
読者の皆さんの中には、無職者のはずの私が、なぜ 「時間が無い」 だの 「今日中に○○に着かねば」 だの ほざいているのか、疑問に思う方もいらっしゃるかもしれません。
実は、高校・大学時代の知り合いが3月11日に神戸で劇に出演するので、観に行くことになっていたのです。そうなると、3月10日には埼玉に帰らないと、間に合いません。
そうでなければ、秋田にも行くつもりでした。
(彼は高校時代演劇部の部長でしたが、「マル経がやりたい」 と言って某京都大学を目指すも演劇の勉強もやめなかったため2浪し、結局私の母校にやってきた情熱の男です。いまは、院で研究の傍ら、草の根劇団?の座長もしているようです。いや、演劇の傍ら経済学研究もしている、と言うべきか?)
新潟を出て約1時間、坂町に着きました。ここで、本物のローカル線 「米坂線」 に乗り換えです。
向かいのホームに停まっている、やや古びたディーゼルカーに乗り込みます。出発までは約20分あります。
寒い! 寒気が四方から染み込んできます。
この列車、すき間だらけのようで、出発を待つ間にすっかり冷えてきてしまいました。
13:38、列車はカリカリとエンジン音を響かせながら坂町を出発しました。
座席はガラガラです。列車は果敢にも山道を登り始めました。除雪で掻き分けられた雪は、列車の窓の高さまで積もっています。
深い雪の中に、列車の幅だけ道ができている、という感じでした。地道な除雪と保線のおかげで地域の足が守られているのですが、そのコストだけを考えるなら、ローカル線を廃止したがる鉄道会社当局の考えはよく理解できます。なにしろ、川をはさんで国道も平行しているのですから。
山あいの小さな駅に着く度に、半自動の扉を開けて地元の人と吹雪が入ってきます。扉は、閉めても閉めても半開きになります。
ふと、昔 学研の雑誌で読んだ、昭和38年豪雪(だったと思う)で米坂線の汽車の遭難した話が頭をよぎりました。
その後 米坂線はディーゼル化され、設備も改良されたとのことですが、現在でも脱線すれば川に落ちて一発でアウトでしょう。
やがて列車は坂を下り始め、白銀の米沢盆地に入りました。そして、なぜか町外れ、といった風情の米沢駅に到着しました。終点です。
米沢には山形大学工学部(旧制米沢高等工業学校)がありますが、時間がないので街へ出るのはやめにします。
というより、あまりの寒さに街へ行く気をなくしました。(ああ、秋田に行かなくてよかった......。)
奥羽本線に乗り換え、いよいよ山形に向かいます。
ここは 「山形新幹線」 と線路を共用しているところですが、車窓から線路を見ている限りでは、よくわかりません。
それでも、途中の駅で退避線に入る際、ちらりと見える他線の軌間は、心なしか広く見えます。「鉄チャン」 を打ち止めにして早11年、もう鉄道観察眼は鈍っています。
新潟を出て約4時間半、ようやく 「東亜のモスコー」 山形に到着しました。
新幹線の駅にしては寂しげな山形駅に降りて、私が最初にしたことは、豚カツを食うことでした。(たまたま駅ビルに豚カツ屋があったに過ぎませんが)
寒さをしのぐには、豚になるのが早道です (← ホントか、それ)。
(注: 「東亜のモスコー(Moscow)」 とは、旧制山形高等学校(現・山形大学)の寮歌に登場する表現です。『嗚呼乾坤』、大正12年全寮寮歌、阪本越郎作詞。より)
とりあえず腹を満たせば、次は宿を決めねばなりません。
タウンページでビジネスホテルを探すと、意外と多くの宿があることがわかりました。
一応は新幹線の停まる県庁所在地、私が予想していたよりは大きな都会でした(失礼)。
普通はその場で宿に電話をかけて予約するのでしょうが、そこは要領の悪い私のこと、結構宿があるから、と予約はせずに街に出ます。
どこか駅前が寒々としている原因がわかりました。駅前に聳える 「山形ビブレ」(大型ショッピングセンター) が閉鎖されているのです。盆地の厳しい寒さは、不況の嵐によって増幅されているのでした。
県庁へ向かう目抜き通りは、降りしきる雪にネオンの光が滲んで幻想的です。
私はもう、どこか外国の街に来たような錯覚に陥っています。
ダイエー山形店の中の書店で市内の地図を立ち読みし、明日の計画を練ります 。山形城跡と山形大学、馬見ヶ崎川は外せません!
(と言いつつ、ガイドブックを買わないことが敗因のすべてなのでした。私はみごとに、旧制山形師範学校の校舎(現・教育資料館)や旧山形県庁を外していました。)
ということで、続きの 「山形編」 はこちらです。