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大阪商科大学に寄す

学園 (まなびや)

(昭和15年 旧制大阪商科大学グリークラブ合唱曲)

金子仁作 作詞
加藤直四郎 作曲


<第一節、イ短調>
城南の青き広野に
新しき芽生えの一つ
おおどかに清らけく
さやぎつ此処に幾歳月 (いくとせ)
緑濃き大樹 (おおき) となる

<第二節、イ長調>
蔭しるき葉かげ求め
集いよる若き学徒
その瞳 望みに燃え
何をか語り はたはまた
何をか想う うなだれて
夢多き短き春を惜しみて哉 (や)
その貴 (とうと) きを惜しみて哉

<第三節、嬰へ?長調>
(ひんがし) のあけの旗雲は
流れつつ黒ずみゆきし
あまたたび 移ろいすれど
緑濃き城南の大樹
常に広野にたたずみてあり
懐かしき我等が 城南の まなびや


出典: 『大阪商科大学愛唱歌集』 (有恒会 編、1990年)などを参考にしています。
振り仮名は現代仮名遣いによります。


著作権上の理由により、曲は掲載しておりません。


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[ 注 記 ]

<著作権について>

作詞者 金子仁作(かねこ・じんさく)は 当時の旧制大阪商科大学のグリークラブ員。昭和16年 [1941年] 前期卒業。 平成元年 [1989年] に亡くなっています。

作曲者 加藤直四郎(かとう・なおしろう)は合唱曲を多く手掛けられた音楽家。明治41年 [1908年] 生まれ。高齢でご存命のようです。
(読者の T.S. さん、情報をありがとうございました)

JASRAC の管理楽曲ではないようですが、著作権上の問題があるため、曲は削除しました。


<歌詞について>

この歌は、グリークラブの同窓会 『南澪会』 の第一回コンサート(昭和15年)のために作られた歌、とのことです。

歌詞には、悪化していく時局が 「・・・旗雲は/流れつつ黒ずみゆきし」 と描かれています。

事実、この学校が 「緑濃き大樹」 でいられたのは、遅くとも昭和18年 [1943年] まででした。
この年、後世 「大阪商大事件」 と呼ばれる左翼思想の検挙事件が起こり、アカ教授とアカ学生が逮捕されます。獄中では、獄死者・発狂者も出しています。

翌19年 [1944年] には校舎の一部は海軍に転用されます。これが原因で、敗戦後はアメリカ軍に校舎が全面的に接収されてしまいます。

戦後は一転、それまで弾圧されていたアカ思想が大手を振ってまかり通り、反アメリカ・ソ連万歳の空気が、焼け残りの小学校に間借りしていた学園を覆います。
当時の卒業生達は 「アカ大学のOB」 というレッテルを貼られ、旧制商大は企業から敬遠されたままその歴史を閉じたのです。

昭和30年 [1955年]、校舎はやっとアメリカ軍から全面返還されますが、アカが学園で狼藉の限りを尽くす状況は、平成9年 [1997年] まで正常化されませんでした。

「城南の大樹」 は、「あまたたび 移ろいすれど/緑濃き城南の大樹/常に広野にたたずみてあり」 とはいうものの、実際には満身創痍で風雪に耐えてきたのです。


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Entaro NAGATANI, 1998-2006.
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