朝起きると、時計はすでに午後1時半を指していました。
急いで支度して西宮を出発し、姫路に着いた時には、すでに3時になろうとしていました。
......私の行動パターンはいつもこうです。雪が舞う中、姫新線(きしんせん)のディーゼルカーに飛び乗ります。 城下町の龍野は、姫路でこのローカル線に乗り換えなければたどり着けません。(山陽本線の竜野駅は城下町のはるか南です。念の為) 四つ目の駅が龍野の玄関口「本竜野」駅。ここで降ります。とても小さな駅です。
龍野は千葉県の野田、銚子に次ぐ醤油の町です。関西で愛用される "うすくち醤油"は、ここが発祥だそうです。まもなく、大きな川を渡ります。揖保川(いぼがわ)です。吹雪は止みました。やや右手に鶏籠山が美しくそびえています。
揖保川を渡ると、もうそこはこじんまりとした古い城下町です。 地図を忘れたので、当てずっぽうで狭い路地を歩き回ること約20分、 ようやく龍野小学校の裏手に『霞城館(かじょうかん)』・『矢野勘治記念館』を見つけました。 時刻は、午後3時50分。入場は午後4時半までなので、なんとか間に合いました......。
『矢野勘治記念館』は『霞城館』と同じ敷地に建っていました。受付は、『霞城館』の方にあります。
童謡『赤とんぼ』の作詞で有名な三木露風氏や、『人生論ノート』で知られる哲学者 三木清氏に関心のある方は、『霞城館』へどうぞ。ここでは、はしょって『矢野勘治記念館』へ進みます。
記念館は、2階建ての普通の日本家屋でした。公開されているのは、1階の部分だけです。玄関から入ると、あの『嗚呼玉杯』のメロディーが聞こえてきます。
中は畳敷です。踏み込むと、少し床がゆれます。相当古い家です。
受け付け台に、ゲストブックが置かれていました。遠く、埼玉や秋田から来る方もいるようです。さすがにこの日は吹雪なので、訪問者は私を含めて4名だけでした。(『寮歌の極小部屋』といい勝負?)
右の方に、日当たりのいい廊下が伸びています。進んでいくと、左手に第一の部屋が。
ここには、矢野勘治氏の一生の略年譜、出生届、母校である日本中学校
(いまの日本学園高校) の資料、アルバム等が所狭しと並べられています。
寮歌の資料を求めて、裏の廊下から次の部屋へ入ります。
いきなり、銀行勤務時代に愛用の大きな旅行トランクが出現。矢野勘治氏は、ロンドンに勤務したり、大連に勤務したりしていたようです。
トランクの上を見上げると、ようやく [ 寮歌関係資料その1 ] が壁面に付着しているのが見つかりました。
"旧制第一高等学校の寮の部屋の落書き"だそうです。その横に、寮がどんなにうつくしかったか、を物語るエピソードが掲げられています。
(うろ覚えなので、原文とかなり異なります)
ある一高受験生の親が、一高の寮を下見にやってきました。親は寮のうつくしさを見て、びっくりしてしまいました。* このページで「うつくしい」というのは、真に受けないでください。
すぐさま親は教授に訴えました。『学生の勉学環境として宜しくない、すぐ改善してほしい』、と。
すると、教授は平然と 『おいやなら、他校をご受験ください』 と答えた、とのことです。
さらに部屋の奥へと進みます。
右手に、一高の寮歌集がショーケースに収まっているのが見えます。表紙に柏の校章が金色に輝いています。
本を手にとって閲覧できないのが残念です。いよいよ、寮歌資料の専門コーナーに入ってきたようです。
並べられている資料を拾い読みしてみましょう。
矢野勘治氏本人の歌唱力についてのエピソードが一角に掲げられています。矢野氏は、いわゆる "おんち" で、自分の作った歌も歌えたかどうかあやしい、とのこと。同級生で寮歌を斉唱するときに、矢野氏は敬遠されてしまった、というのは酷な話です。
『嗚呼玉杯』についても重大な事実が。矢野勘治氏が最初につくった原詞は、いま知られているような漢文調ではなくて、和文調だったそうです。
そのままでは曲を付けづらいので、作曲者である楠氏の意向を容れて漢文調に改めた、ということです。
(そういえば、同じく矢野氏の手になる『春爛漫の花の色』の方は比較的和文調ですね......。)
作曲者、楠 正一氏についての資料も置かれています。
楠氏は "音楽の天才" とみんなから呼ばれていたそうですが、一高卒業の直前に、忽然と姿を消してしまいます。 そのため、いろいろな伝説が氏について囁かれたそうです。楠氏についての話は、記念館に置かれていた、『秋田さきがけ』新聞のコピーに載っています。これは、手にとって読むことができます。
代表的なものは、といったところだったようです。特に、恋愛ネタの方は一般受けがするため、定説になっていたそうです。
- とある美人歌手との恋に破れた
- 東京音楽学校に入りびたっている
しかし実際には、そのころ氏は同じ一高の理科教室の助手をしていたそうです。秋田の実家が没落して生活費に事欠くようになってしまったらしい。
『嗚呼玉杯』の作詞者と作曲者は、旧制中学・高校を通じての同窓生でしたが、この歌をつくるまでは、特に親しい関係ではなかったそうです。 やはり同窓には、後に首相になった吉田茂氏がいたようで、矢野氏は東京帝大進学後も何かと吉田氏と張り合っていたそうです。帝大を卒業するにあたって 当初矢野氏は吉田氏と同じ政界にすすむ希望をもっていたようですが、ある教授の勧めに従い、財界に進みます。(横浜正金銀行に入行)
しかし矢野氏はあまり体が丈夫でなかったらしく、銀行では常務にまで昇進しますが辞職し、龍野に戻ってきます。
そして、いま記念館になっているこの家で静かに余生を送っていた、とのことです。
そろそろ底冷えがしてきましたので、記念館を出ましょう。
* この『矢野勘治記念館』、古い日本家屋なので暖房設備が皆無です。冬は懐炉ぐらいを持参されるようお勧めします。
私は、30分ぐらいしかもちませんでした。もったいない......
観光用の駐車場・売店から少し上がったところ、道の右側に『赤とんぼの碑』が見えます。
さらに少し上ったところに "小動物園" があります。『嗚呼玉杯の碑』はそこにありました。
近づいてみると、高さ4メートル位ある一対の石碑です。一方が『嗚呼玉杯』、他方が『春爛漫』の碑でした。
立看板曰く、"拓本を希望の方は観光協会事務所まで"。......拓本を取りに来る人もいるらしい。 赤とんぼの碑の拓本は観光売店で売っていますが、嗚呼玉杯の拓本は売っていないので、どうしても、という方は 観光協会に連絡の上実行してください。私は責任は負いかねます。
時刻は午後4時半をまわっています。写真を撮ろうにも、フラッシュが届きそうにないので、今回は諦めました。
また雪が舞い始めました。風も強くなってきます。
観光売店で「にゅうめん」(あたたかいそうめん)を食べ、お土産を買います。
まず、定番の「揖保の糸」を。これはこの地方特産の手延べそうめんです。いま食べた「にゅうめん」はこれが元。
変わったところでは、「桑の実ゼリー」というのがありました。もちろん、童謡『赤とんぼ』にあやかったものです。
桑の実は龍野で取れたものを使っているようで、販売元はJA龍野です。難点は、値段が高いこと。(5個入りで ¥1,250.-)
もったいないので、実家用に5個入りのものを買い、勤務先には買っていかないことにしました。なにしろ部署には15人もいるもので......。
店を出ると、また吹雪になってきました。本竜野の駅へ急ぎます。
あたりはとっぷりと暮れてきました。ややさびしい町並みの向こうに、駅の明かりが見えてきました。
時刻表を見ると、次の列車までまだ30分もあります。吹きさらしの駅には、客は私しかいませんでした。
地元の人は時刻表を知っているので、列車の到着時間まぎわまで駅に来ないのでした......。
寒かった。さらば龍野。