高校生時代、M先生から戴いた手紙

......そして私の屈服人生の始まりでもあった。


拝啓

大寒の声を聞くや暖冬も中断して寒くなってきたのは 不思議と言えば不思議です。 この不思議な存在に目を向け畏怖して祈る事から 宗教と言う営みは生まれたと私は考えていますが あなたはどうでしょうか?  人と言うのは合理の世界にしか生きられないのに対して 畏怖されるべき何か(私はこれを神と仮に言うことにします。)は超合理、 あるいは不合理の世界に住み、 時として人にも姿を見せてまた元の世界へ帰って行くようです。

扨、今回のあなたの柔道をたたかいと見るかどうか、という問題で 私も二度ほど話をきかせてもらいましたが、 ともかくも私にとってうれしかったのは  「戦いをしないという戦い」 をやめてくれた事です。
その結果が良かったのか悪かったのかは今は私にも判断がつきません。 これは神のみの御存知の事です。 しかし私にはやはりうれしい事です。 学校としては柔道にしても剣道にしてもスポーツとして認めている事は 以前にお話した通りです。そしてあなたが戦いをどう理解し解釈するかも自由です。 世俗の生活と聖なる生活はおのづからちがう筈です。 聖なる生活の目ざす所は死が待っているのですから。 神のおきてとはきびしいものです。しかし人は神を捨てることは出来ないのです。
話は脇道にそれて行きました。 問題は世俗の組織、学校の目ざす所と神の目ざす所とは ちがう事があってもあたり前なのです。 むしろちがう方が当然なのかもしれません。 しかし先に申上げた通り、神のことばの先には死の世界があるのです。  (「汝の敵を愛せよ」を実践すれば時には死に至る事もあると思いませんか?)  そして世俗の世界に身を置いているのです。これも全く無視はできません。 要はどう折合いをつけるかでしょう。

あなたの属する教団の方針が大切だと申上げたのはこのためです。 そして出来うる限り教団の許す範囲内で折合いをつけてほしいのです。 教団は柔道などの選手権試合などに出場する等はたたかいと見なす、という事 だそうですから 学校で行う授業は許容範囲でしょう。 学校は柔道の授業はスポーツと見ておりましたが、 あなたはたたかいと見て、今迄柔道をしなかった訳でしょう。 しかしよく決断してくれたなあ、と有難くお礼を申上げます。 これは学校という組織に対する挑戦であるというお話は前に申上げた通りです。 これをよく思いとどまり、教団の教えにも反せず、 しかも学校の規定にもふれない所で妥協してくれた事は本当にうれしい事です。 学校としては原級留置(落第)はしたくないのですが、柔道では組手をしない限り 単位を与えない、という一条がある限り仕方がない事です。 KTJさん(引用者注:柔道の先生)も、KJT主任(同、数学の先生)も 決して単位を与えたくないという気持ちはなかった筈です。 しかも学校は柔道は戦いと思っていなかったのですから二重の苦しみであったと 思われます。 そういった意味でよく妥協してくれた、と感謝でいっぱいです。

生きているというのは常に何かとの妥協の結果であると私は思います。 神との折合い、人との妥協の結果、生きてゆけるのです。
といって常に折合いや妥協ばかりをしていては  たしかに個人(Mという、あるいはナガタニという)が生きたという事にも なりません。 そこをうまくあやつって程良く均衡を取ってゆく事ができれば 人生の大成功者となる事はうたがいありませんが、 現実は生身と生身の人のぶつかり合いですからまことに難しいと思われます。  しかし出来うる限りうまく折合いをつけて行く事しか私にはないと思うのです。  冷静になるだけ現実を突放しつつ観察しつつ  ある時点で行動に出なければなりません。 その結果は神に任ねるしかないのです。
我々に許されているのはこの一事だけです。  そういう点では今回のあなたの決定は正しかったと思いますし、 少くとも学校側はあなたによって無用の戦いをせずにすみ、 助かったと言えるでしょう。
勇気ある停戦に敬意を表しつつ
筆を措く事にします。
 本当に有難う。

敬 具  
M  


......諦めて、屈服して、妥協して、逃げて、それでいて感謝されたのは 当時大きな屈辱でしたが、そういう卑怯な行動は 私の本質だと今は思います。(ながたに えんたろう)