2000年3月、北日本旅行報告(2) 〜 新潟編 

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< 2000年3月6日 月曜日 晴れ 新潟にて >


■ 新潟県立図書館へ行くが…

雪国の雪なき県都の朝が来ました。
一般人の皆さんは、お勤めの日です。不良国民の私も、8時にはチェックアウトを済ませ、駅北口(万代口)のバスターミナルに向かいます。

前日に書店で地図を立ち読みして、新潟県立図書館は新潟駅のはるか南西、鳥屋野潟のほとりの女池 (めいけ) という場所にあることがわかっていましたので、その方面に向かうバスに乗り込みます。
この駅前には、バスの情報をプリントアウトできる端末が設置されており、なかなか便利でした。

バスはなぜか大通りを北へずんずん進み、水都新潟のシンボル万代橋で信濃川を渡り、賑やかな古町を通ったと思ったら再び信濃川を渡って、ようやく鳥屋野潟のある南へ向かいはじめました。
とんでもない迂回ルートですが、おかげで新潟の街の大まかな構造が分かりました。これで、地図無しで歩いても大丈夫です。
で、鳥屋野潟のほとりの野球場前でバスを降り、県立図書館の、曲線を描く優美な躯体に近寄ってみたところ、
案の定、定休日でした。

仕方がないので、県立図書館は次の日にまわし、この日は、新潟の街をゆっくりと観光することにしました。まずは故・田中角栄絡みで有名な鳥屋野潟に沿って散策し、湖面に浮かぶ無数の鳥たちと向こう岸に建設中の戦艦、もとへ、競技場を眺めます。相変わらず土建のお国柄のようです (土建業に6年間お世話になった私が言ってはいけませんが)。

さて、中心街へ向かうバスに乗らなくては。と、そこへやって来たバスを見て、思わず身が引けました。
オーソドックスな制服に身を包んだ高校生軍団でバスの中は真っ黒。
なんとかステップのところに乗り込み、握り棒にしがみついて耐えること約15分、新潟駅前まで連れ込まれてしまいました。とても途中の古町近辺で降りるどころじゃない。

なお、女子高生のルーズソックス率は約90%でした。まあ、寒い国だからねえ......。東京みたいに 「やまんば」 がいないだけマシでしょう。


■ 新潟の中心街へ

駅前で軽い昼食を取り、目抜き通りを古町へ向けて歩きます。通りの両側には、名立たる大企業の支店の入ったビルがずらり。支店経済の街であることを物語っています。
途中、パソコン関係を見ようと電器店に入ったところ、「デビットカード」 導入初日、ということで地元のテレビ局が張り込んでいました。慌てて店を出ます。
やがて、空が広くなり、信濃川にかかる万代橋のたもとに着きました。

[万代橋南詰より、niigata03.jpg] 新潟のシンボル、万代橋

* クリックすると、より大きい画像を呼び出せます (JPEG、約47KB)

新潟地震の際、この古い万代橋は大丈夫だったのに、完成したばかりの昭和大橋は落橋した故事を思い出しながら渡ります。信濃川の川面を撫でる風は冷たく、春はまだ遠く感じました。約500メートルはあろうかという長い橋ですが、街の中心を隔てているだけに、多くの人が歩いて渡ります。

橋を渡ると、いよいよ新潟の中心街、古町に入ります。
新潟は不思議な街で、幕末の開国時に開かれた五港のうちの一つ (実際に開港されたのは明治2年 [1869年]) とのことですが、全く港町の風情がありません。
日本海側を代表する大都市ですが、城下町だったわけでもないようです (城下町は、長岡)。
「水の都」 を自称する割には、信濃川と日本海以外に水らしい水もありません。新潟地震からの復興の過程で、町中にあった堀を埋めてしまったからだそうですが、白山神社の周辺ぐらいしか、「水都」 の風情を感じさせる場所はありませんでした。
むしろ、東京の出張所、といった感じの街でした。


■ 残念、旧制新潟高校の跡地を見逃す

市役所の前で、新潟大学の医学部の方へと曲がりました。
新潟大学医学部は旧制新潟医科大学を継承する伝統校、と聞いていますので、一応は見ておくことにしたのです (本当は、大病院の近くにはあまり行かない方がいいのですが。毒性の強い、変異した菌がウヨウヨいそうですから)。
軽い坂道を登ると、工事中の仮囲いに被われた病院と校舎が目に入りました。
見るべきものはなさそうなので、さっさと引き上げます。丘の上の 「日本海タワー」 にも興味ないし。

実は、後で知ったのですが、その日本海タワーの西側一帯が、旧制新潟高等学校の 「あくがれて来し丘」 だったのです。旧制新潟高等学校は新制新潟大学に継承されましたが、今の五十嵐キャンパスは昭和44年 [1969年] にできた新しいもので、旧制高校を継承した部分は、それまでこの丘の上にあったのでした。失敗しました。


■ 閉ざされた洋館(苦笑)

先程のバスの車窓から、古そうな洋館が目に入ったのを思い出し、昭和大橋へ向かう道を急ぎます。
梅の花開く白山神社に少し立ち寄ったのち、その洋館があった辺りへ歩を進めますと、ありました。 明治期に建てられたという旧県議会議場です。いまは県政史料館になっているようですが、例によって、月曜日は定休日でした。ぎゃふん(俗語の死語)。

[旧県儀会議場、niigata01.jpg] [旧県儀会議場、niigata02.jpg]
新潟県政史料館 (月曜定休) * クリックすると、より大きな画像を呼び出せます。(どちらも約 50KB)


■ 話題 (不謹慎) の新潟県警本部へ

こうなったら、新潟観光の王道(なのか?)、新潟県警本部へ行くしかありません。
早速、一度地震で落橋したことのある昭和大橋を南へ渡り、遥か川上に霞んで見える新潟県庁をさして早足で歩きだしました。県警本部は、この高層庁舎の傍らにあるようなのです。
歩き詰めること約30分、ようやく天空に向かって屹立する県庁の前に到着です。

[新潟県庁、niigata04.jpg] 聳え立つ新潟県庁

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県庁は、ほぼ左右対称の堂々たる建物です。
正面入り口は南側にあり、背の高い県庁管理棟を中心に、向かって右(東)が県議会場、左(西)が県警本部でした。 県警本部は県庁管理棟とは柱廊(?)でつながっています。

[新潟県警本部、県庁側から。niigata05.jpg] 新潟県警本部、県庁側から望む。

* クリックすると、より大きな画像を呼び出せます。(JPEG、約65KB)

この写真を見て、「テレビで見た新潟県警本部と違うような...」 とお思いの貴兄へ。
実は、テレビによく登場した風景は、県庁につながっているのとは反対側の、西側の玄関回りだったのです。
確かに、そちらの方がカメラ写りはいいでしょう。(個人的には、新潟県警本部の建物を見て、なぜか大阪府立大学の建物を連想してしまいました。他意はありません。
しかし、神奈川県警本部のように聳え建っておらず、低層の慎ましい建物ですから、比較的好感が持てました。


■ 新潟大学五十嵐キャンパスへ

さて、話題のスポットも押さえたし、次はどこへ行こう?
と思いながら信濃川の川辺を歩いていると、鉄橋を渡るJR越後線の電車が目に入りました。
(そうだ、越後線沿線には、新潟大学の本部(五十嵐)キャンパスがあるな。) 新潟大学の図書館には、 戦後同大学に包括された旧制諸校の史料があるに違いありません。
川を渡って、なんとか 「関屋」 駅に辿り着きました。小さな駅の待ち合い室では、大きな石油ストーブが景気よく燃えていました。新潟大学の最寄り駅は 「新潟大学前」 駅ではなく 「内野」 駅だ、と何かの雑誌で読んだことがありましたから、それを信じることにします。

乗り込んだ電車は、ワンマン運転に対応していました。運転席の近くになぜか運賃箱があったりします。無人駅が多いのでしょう。
電車は、信濃川の放水路を渡り、住宅街を縫って走ります。やがて、信濃川と日本海の間を隔てる松の多い丘の中腹を走り出しました。丘の下には、「新潟にもこんなベッドタウンが?!」 と驚くような新興住宅地が広がっています。あの風景だけを見ると、大阪で言えば枚方市近辺と勘違いしそうです。
十数分後、内野駅に到着。教授風のおっさんや大学生風の若者の後に従って住宅街を上り下りすること約15分、丘の上に、国立新潟大学のキャンパスを認めました。


■ 松林を彷徨う

新潟大学の五十嵐キャンパスの特徴は、とにかく松が多いことでしょう。 各学部の建物は、松林に埋もれるように建っていました。
どこかで似た風景を見たな、と思ったら、国立神戸大学のキャンパス(旧制神戸経済大学を継承) に似ているのでした。ただし、神戸のような眺望も石張りの校舎もありません。
法学部近くのベンチに腰を下ろし、ようやく足を休めました。普段は全く運動しない人間が、この日は8kmほど歩いたのですから、さすがに足が熱を持っています。
松風に吹かれながら、道行く学生を見ていると、かなり外国からの留学生がいるのに気付きました。新潟の街中では、日本人らしき人しか見かけませんでしたが (保守王国だしね)。

新潟には、かつて海沿いに砂丘があった、と聞きます。この松林も防砂林だったのかもしれません。
それなら、すぐ近くに海が見えるのでは? と早速徘徊をはじめましたが、
わずか5分後には諦めていました。松林は予想以上に広大で、海の匂いすらしなかったのです。
(注:校舎の最上階に上れば、日本海も佐渡島も見えるようです。)

[新潟大学の松林、niigata06.jpg] どこまでも続く、新潟大学の松林

* クリックすると、より大きな画像を呼び出せます。(JPEG、約74KB)


■ 新潟大学図書館に潜入

再び、学生の行き交う中央通り(仮称)に戻ってきました。
今回の訪問目的の一つ、付属図書館に行かなくてはいけません。
幸い、道のあちこちに矢印付きの看板が立てられていますから、場所はすぐわかりました。

図書館の階段を上りながら、(図書館カードを持っていないと門前払いを食らうのではないか?)、という不安が脳裏をよぎりましたが、それは杞憂でした。
入り口にあったのは、最近流行りのカード式ゲートではありませんでした。そもそも、「(旧)新聞資料室」なる無人の部屋がすぐ横にあり、机の上には各地・各国の新聞がおおっぴらに並べられているではありませんか。まったく、大らかな図書館です。(大阪と違って、せこい人間があまりいないのかもしれません。)

入試の季節で、おそらく春休み中だというのに、たくさんの学生が図書館にいます。さすがは国立、勉強熱心です (勉強熱心でない国立大学は、某K戸大学文系くらいしか知らない)。この近辺に、大学以外スポットがない、と言ってしまえばそれまでですが。
かなり開架図書があります。手前に 「郷土資料」 の大きなコーナーがありましたので、そちらをまず見てみます。

すると、ありました、旧制新潟高等学校の資料が。 題名は忘れてしまいましたが、記念誌です。扉には、万代橋を渡る旧制新潟高生の白黒写真が。
この本を見て知ったのが、旧制新潟高の場所でした。私はてっきり五十嵐キャンパスの近辺だろうと思っていましたが、 もっと市街地の近く、「日本海タワー」の西側の、市営グラウンド(?失念)になっている辺りだったのでした(既述)。今の新制新潟大学(除く医学系)よりは、新潟市民に近い存在だったのかも知れません。
残念ながら、寮歌の楽譜は載っていませんでしたが、寮歌 『生誕ここに』(頌春の歌) の作詞者、山田定雄氏に関するエピソードなども載っていました。
それによると、今の歌詞は 「生誕ここに一年(ひととせ)と」 で歌いはじめますが、山田氏が最初に作ったのは、「生まれてここに一年(ひととせ)と」 で始まる歌詞だった、和語から漢語に変わったのは、某教授のアドバイスによるものだった、といいます。
確かに、伸ばす音 「せー」、はねる音 「たん」 で始まることにより、躍動的に歌いやすくなっています。また、漢語を使うことにより、引き締まって新鮮な印象が出てきます。

他には、新制新潟大学の歴史を扱った本もありました。
この本によって、五十嵐キャンパスへ学部が集まったのが昭和44年 [1969年] のことで、旧新潟高の跡地が大学に使われていたのはそのころまでだった(もっとも、大学職員宿舎は今も付近にある?)、ということがようやくわかったのです (これも既述)。
しかし、もう橙色の陽は西に大きく傾いています。今から旧制新潟高の跡地に行くのは無理でしょう。そもそも足も疲れているし。
開架には、ほかに目ぼしい旧制資料はないようです。

この図書館では、最近の本の検索はコンピュータ化されていますが、すこし古い資料はカードで検索するようです。
目指す寮歌資料は昭和時代発行の本ばかりですので、カード式目録のコーナーを見ることにしました。
「旧制」 の項をめくっていくと、「旧制新潟高等学校寮歌集」 が何種類か、ちゃんと収録されていました。 遊閑斎さんから教えていただいた、「六花会」 による寮歌集もあるようです。
(注: 「六花」 とは雪の結晶のことで、旧制新潟高の校章でした。寮も 「六花寮」 と呼ばれていたとのこと (新制新潟大の寮も 「六花寮」 と呼ばれていますが、名前の由来は異なって伝えられているようです)。でも個人的には、ホワイトチョコで有名な 「六花亭」(北海道の製菓会社?)を連想してしまいます。)
しかし、開架図書にはありませんでした。書庫から出してもらうには、窓口で手続きしないといけませんから、ここは諦めましょう。

開架図書を見て回っていると、新聞の縮刷版コーナーがありました。なんと、大抵の図書館では書庫入り確実な、昭和時代のものが惜し気もなく陳列されています。面白いので、母校の学園紛争が武力鎮圧された日 (昭和44年 [1969年] 10月4日) の記事を見ることにしました。
すると、新潟版にもかかわらず、三面記事に記事が載っています。曰く、

全国の公立大学で唯一の " 紛争重症校 " である●●市立大 (●●市住吉区、◆◆◆学長) で4日、(以下略)

「公立大学唯一の問題校」、ということですね。大体、私の時代(平成初期) でも地元の心ある親は、子供が●●市立大を受験しようとすると止めていたそうですから。「あんな学校、ウサン臭い奴しかおらへんから受けるな」 ってね。
閑話休題、そんな学校出身の私から見て、新潟大などの地方国立大がとてもうらやましいのは、学生が使える施設が広大なことです。現に、この図書館のスペースの使い方も非常に贅沢です。普通の図書館なら、昭和時代の新聞縮刷版(しかも日経、毎日、新潟?の3紙)を開架書架に乗せておく余裕はないはずです。

いよいよ陽は落ちて、寒くなってきました。
また街の中心へ帰らねばなりません。
私は図書館を出ると、すぐ横の広大な生協食堂で広報誌を採取し、熱い茶を飲みながら夕陽を見送りました。
そして、重い足を引きずりながら学園の丘を降り、「新潟大学前」駅から帰途についたのでした。

[夕暮れの生協前広場、niigata09.jpg] 五十嵐キャンパスの夕暮れ

* クリックすると、より大きな画像を呼び出せます。(JPEG、約 41KB)


さあ、明日こそは県立図書館で寮歌資料を取材するぞ!
ということで、続きの 『新潟県立図書館・山形編』 は、こちら(写真はありません)。


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