( 明治40年 旧制大阪高等商業学校・大阪商科大学校歌 )
佐佐木信綱 作詞
田村虎蔵 作曲
1.
夕古城を仰ぎ見て 豊太閤を偲ぶとき
朝はるかに築港の 上にたたずみ思ふとき
嗚呼偉大なる 此のながめ
2.
棚引きのぼる煤煙は 空紫に立ちこめつ
安治川口の帆ばしらは 水に林を見る如し
進取に富める 此のながめ
3.
進取偉大の志 かかる自然に養はれ
わが東洋の商業を 統ぶる都会に学び得つ
我等が幸の 多きかな
4.
国の栄は商業の その伸張に待たざるや
見よ青年の往く処 希望は常にそこにあり
東西万里 往かんかな
出典: 『大阪商科大学六十年史』(1944年)などを参考にしています。
3番の「我等の幸」は「我等が幸」に改めました。
なお、漢字表記・振り仮名は、現代のものに改めてあります。
作詞者 佐佐木信綱氏 (1872年生 - 1963年没) は唱歌 『夏は来ぬ』 等の作詞で知られる歌人。
作曲者 田村虎蔵氏 (1873年生 - 1943年没) は童謡 『金太郎』『花咲爺』 等の作曲で知られる作曲家。
プロに依頼して作られた歌です。歌が作られる 1年半前の明治38年(1905年)秋、イギリスの東洋艦隊が大阪港に寄港し、大阪市が中之島公園で接待しました。
その際、市立大阪高等商業学校の生徒 約150名が通訳・案内に携わり、艦隊司令官から生徒一同に慰労金が贈られました。
これを有意義に使おうと協議の結果、校歌制定に使うことになり、プロに依頼して明治40年(1907年)2月にできた歌とのことです(『日本寮歌集』より)。なお、作歌当時、大阪城の天守閣は江戸時代に焼失した後まだ復興されておらず(今のコンクリート造天守閣ができたのは昭和6年(1931年))、詩情の上でのみ仰ぎ見るものでした。
曲の著作権は 1993年末に、歌詞の著作権は 2013年末に消滅しました (当時の著作権存続期間は作者の死後 50年)。
この歌は、大阪高等商業学校および後身の大阪商科大学 (大阪市立大学 - 大阪公立大学(杉本)の先祖)、元附属校の天王寺商業学校 (略称:天商。天王寺商業高等学校 - 大阪ビジネスフロンティア高等学校の先祖) で校歌として歌われました。
天商では原曲のまま歌われましたが (注:掲載した 「原曲版」 とは 1か所だけ異なる箇所があります)、大阪高等商業学校や後の大阪商科大学ではメロディーを若干変えて歌っていたようです。それが 「商大版」 として掲載した方のメロディーです。
同窓会 「有恒会」 が 1990年に発行した 『大阪商科大学・大阪市立大学愛唱歌集』 に収録されていたのはこちらの 「商大版」 ですが、同じメロディーの楽譜は、『日本寮歌大全』・別巻 『旧制高等学校寮歌集』(1996年、国書刊行会。ISBN 4-336-03789-2) P.272 にも掲載されています。
大阪商科大学は第二次大戦後の学制改革で都島工専・女専と統合して大阪市立大学になりましたが、旧制最後の学生が卒業した昭和28年(1953年)の学生自治会決議で、「旧制商大校歌 『夕古城を仰ぎ見て』 は歌詞が古い上に商大偏重であるため引き継がない。将来 新学歌を制定するまでの間、暫定的に 『聞けや大和の清流に』 を校歌として使用する」 旨、決議されたとのことです。大阪市立大学法学部40周年記念 『聞けや大和の清流に』 (1993年6月発行) あとがきより。
結局、大阪市立大学も学歌を制定することなく歴史の彼方に消えてゆこうとしています。
天商は第二次大戦前は男子校でしたが、戦後 大阪市立天王寺商業高等学校になって共学化してからやがて大半が女子生徒になり、昭和59年(1984年)には新しい校歌 『難波津の万葉の』 が作られ、『夕古城を仰ぎ見て』 は 「天商第一校歌」 として辛うじて生き延びました。参考: 天商同窓会
天王寺商業高等学校も 2012年に大阪ビジネスフロンティア高等学校に統合され、2014年に閉校となりました。今、この校歌を歌う学校はありません。
クリエートシステム開発株式会社の おもしろ替歌(フリーソフト) (DTKAEUTA.EXE) を使用して合成したものです。