えんたろうの詳細な経歴

単なる恥さらし。

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1967年?月 (−4歳)
淡路島出身の父 (血液型A)、よせばいいのに東京の会社に就職し、よせばいいのに会社の先輩女性 (母。血液型O) に手を出す。

1970年4月5日 (−1歳)
両親、よせばいいのに結婚する。よせばいいのに、奈良へ新婚旅行に出かける。
爾来、NAGATANI 家では社内結婚、なかんづく先輩との結婚は法度である。
ついでながら、私 (血液型A) は血液型O型女性を禁忌に加えた。

1971年1月某日 (0歳)
残念なことに、えんたろう生まれる。 於:東京都品川区の関東逓信病院 (知人のつてでまんまと入院したらしい)
体重約 2,700g。がりがり。やや早産気味。

1971年1月下旬 (0歳)
退院して品川区戸越銀座の3畳部屋に移り、両親と近隣の人の安眠を奪う。

1971年秋 (0歳)
埼玉県大宮市宮原の借家に転居する。ふすまと障子をさんざん破る。

1972年12月13日 (1歳)
妹その1が生まれる。妹の方がまるまるとして強そうだ。

1972年末 (1歳)
東京都調布市国領の社宅に転居。米びつの米をさんざん撒き散らす。

1973年 (2歳)
妹とさんざんケンカする。後に、妹の方がやっぱり強くなる。

1974年 (3歳)
同じ社宅に住む女の子のアポロチョコを約束に反して全部食べ、さんざん糾弾される。
爾来、女の子とは決して約束をしないし、アポロチョコは禁忌。(← 約束破っといてえらそうに......)

1975年4月 (4歳)
近所のスイミングスクールが経営する幼稚園に入園する。 ここは毎日肝油ドロップを1粒くれた。なんて危険な幼稚園だろう (体内の脂肪にビタミンが蓄積される)。

1975年5月 (4歳)
千葉県野田市メソポタミア (和訳されたし) に転居する。幼稚園も当然転園。
こんどの幼稚園はお寺が経営。便所はボットン式。家の周辺は、沼地だらけだった。

1976年 (5歳)
クラスの女の子に弁当のおかずを取られる。
女の子は 「くれないと おまわりさんに言いつけるよ。あたし、おまわりさんと仲良しなんだから」 と国家権力を持ち出して脅した。女性は、自己の利益のためなら何でも利用する素質を幼少時から有している。と思う。

1976年夏 (5歳)
近所の食料品店の軽トラックとぶつかる。1ヶ月寝込む。
あとで保険金が下りたときに、両親が 「死んでたらもっと高かったのに」 と言うのを聞く。

1976年9月5日 (5歳)
妹その2が生まれる。今度の妹は、おとなしそうだ (←んなわけあるかい。後日談)。

1977年4月 (6歳)
野田市立メソポタミア (和訳されたし) 小学校に入学。入学早々ハチに刺される。とんでもない田舎の学校だった。

1977年5月 (6歳)
4月にみんなで種を蒔いたアサガオの芽が、えんたろうの鉢だけ出てこない。
連絡帳に、親が 「苗を植えるなどして、みんなと進度を合せて欲しい」 と書いているのを解読 (漢字も読めた)。 数日後、先生が 「NAGATANI くんのアサガオ、やっと芽がでたよ。よかったね」 と宣うた。茶番もええかげんにせい。
芽生えたのは、両親や教師への不信感だった。

1977年10月12日 (6歳)
関西に引っ越す。兵庫県芦屋市のボロ社宅に住む。面積約30平米のところに一家5人はややきつかった。
芦屋市立ロックガーデン (和訳されたし) 小学校に転入。先生までが関西弁を話す、ふざけた環境にショックを受ける (いま思えば、ごく当然の環境だけど。)

1978年 (7歳)
母、周囲に知り合いがいない心のスキを突かれ、某新興宗教にハマる。
子供の えんたろうと二人の妹も巻き込まれる。おかげで、文語と聖書とヘブライ語が少しわかる。大分間違ったことを教わった。
教義上、いろいろな行事 (七夕、クリスマスなど) に参加しないことが多かったので、周りから浮きまくっていても気にならなくなった。
日曜日のほかにも週に2回、夜の集会に連れ出されたので、あまりテレビの番組を見ることができなかった。

1980年3月 (9歳)
斜視を手術で治療。これ以降はじめて物が立体的に見えるようになる。

1981年 (10歳)
5、6年のときのクラスの先生は、明らかに左翼であった。 社会問題について、いろいろと教えてくださった。 特に、いま国が何を企んでいるのか、という話は興味深かった。例えば、買い物をするとその度に税金がかかるようになるだろう、という話だ。 無論、1989年に導入された消費税 (旧称:売上税) のことである。

1983年4月 (12歳)
小学校を卒業し、芦屋市立Y中学校に入学する。いままでに通った学校の中で、唯一環境が良かった。
1年の担任の先生は、これまた左翼であった。
2年の担任の先生は、体力系の先生だった。クラスには、血気盛んなのがたくさんいた。一人はバイクの無免許運転で事故り、昇天した。彼の母親も、某新興宗教信者だった。
3年の担任の先生は、こわい女の先生だった。といって、女の先生は、おしなべてこわい先生である。

なお、部活は科学部生物班、という軟弱なところであった。

1986年4月 (15歳)
中学校を卒業。神戸市須磨区 (サカキバラ君の結構近所) に転居。兵庫県立NGT高校に入学。
ここは、男は変な奴 (俺もそうか) が多くて楽しかった。女は、勉強のことしか頭にない高慢な女ばかりだった。 もっとも、女性はそもそも皆高慢である。こーまんを所有しているからである。 (シモに落としてごめん)

1986年5月 (15歳)
早くも、柔道の件で先生と対立。某新興宗教の教義のおかげだが、まいった。3日に1回ぐらい職員室に呼び出されて説教された。
柔道を履修しないと、2年に進級できない。一挙、退学の危機にさらされた。明らかに間違ったことを信じて押し通そうとするのは、とても骨が折れた。

1986年11月 (15歳)
結局、某新興宗教の教義に反して、柔道をすることにした。
某新興宗教からは、 「もう援助しないからね」 と追い出された。卑怯な私は、自由の身になった。
なお、とある先生からは、 「戦いをやめてくれてありがとう」 という手紙をいただいた。まだ返事は出していない。

1987年 (16歳)
失われた時を取り戻すため、路線変更をいろいろ試みたが、すべて女性に誤解された。
女性とは、凡そ異質なものを攻撃して優越感にひたることにより自己の満足を得る生き物である。

なお、部活は生物部なる軟弱なところに入っていた。

1987年5月15日 (16歳)
弟が生まれる。わが子ではない。俺の代りに長男をやらせようと考えている。

1989年4月 (18歳)
高校を卒業し、大阪市立の某大学(そのまんまやんけ)に入学。
入学早々、M青K産党の学生シンパ団体)とC核派 (法政大学に本拠がある左翼学生組織。おとなの団体は、江戸川区内に本拠がある) に捕まる。 すぐ逃げ出したが、俄然左翼に詳しくなる。

サークルは、『野草の会』 なる植物愛好者の組織に入った。

1990年 (19歳)
この年は、C核派が大暴れ。しょっちゅうバリケードストライキで休講になった。無責任な傍観者だった。
でも、前年のベルリンの壁崩壊につづいて、この年ソ連がつぶれてしまった。とても残念に思っていた。この日和見者。

1992年 (21歳)
某弱小ゼネコンに内定。まだバブルの余波が残っている時代だった。K丸氏がゼネコン絡みで逮捕された年だった(8月)。
なお、この某弱小ゼネコン、この年の10月に社員が暴力団関係者と一緒に国土利用計画法違反容疑で逮捕され、官庁から実質5ヶ月の指名停止処分を受けた。
本気で内定先が潰れるかと思った。

1993年4月 (22歳)
某弱小ゼネコンに入社。入社4日目に、突如東京勤務を命ぜられる。4月7日、埼玉県川口市に転居。
3ヶ月間の現場研修の後、東京経理部に配属される。
この年、世間はゼネコン批判でもちきりだった。10月、奈良のM本建設が倒産したのに危惧して、社内預金を全額引き出したら、「フーゾクに入りびたっている」 旨のウワサが広まった。ほんとはまだドーテイだったのに... (いまもまだ素人童貞である。これ、不治の病)。

1995年1月17日 (24歳)
阪神大震災が起こる。勤務先のゼネコンが昔施工した新幹線の橋脚から木片が見つかる。

1995年3月 (24歳)
オ○ム真理教地下鉄サリン事件が起こる。勤務先のゼネコンの不良債権ビル(南青山)にオ○ムが住み着き、連日テレビに映される始末。 さらに、オ○ム幹部のM井氏がそのビルの前で刺殺される、というおまけ付き。

1995年10月 (24歳)
突如、関西の情報システム部 (コンピュータをいじる部署) 勤務を命ぜられる。10月19日、兵庫県西宮市に転居。
機械いじりが性に合わず、とても困りつつ2年半ガマンしたが、......

1998年6月 (27歳)
社内メール (MS Exchange) の管理者になったのが災いして、退職を決意。
次の勤務先を決めないまま退職を実行。埼玉県志木市に移住。実に無謀。

なお、将来とも家庭を持たないことを決意。
これは、寮歌の継承を自ら放棄したことでもあるので、このサイトにしては内容のあった 『寮歌の極小部屋』 を閉鎖。

1998年10月 (27歳)
東京都板橋区内の小さな電気工事会社 (某借金棒引きゼネコンの下請) に就職。
再び建設業関係者としての毎日が始まる。
経理部の求人に応募したのだが、入社後わずか1ヶ月で、またコンピュータ関係の部署に回されてしまった。

1999年10月 (28歳)
某重役 (某借金棒引きゼネコンのOB。70歳) より、「辞めろとは言わん、辞表を出せ」 と会議の場で言われたのに便乗し、腰抜け2代目社長 (48歳?) に辞表を提出。
こんどの 「キラーアプリ」 (文字通りの意味で) は、「TSP Builder」 なる 某T社の工事原価管理用ド腐れパッケージソフト。このド腐れソフトを導入したのは、この某重役。ジジィは、経理もコンピュータも全然わからないくせに、いろいろ業務に難癖つけて会社を混乱に陥れた。だいたい、いまどき 「工事進行基準」 から 「完工基準」 にわざわざ変更する会社がどこにある?
この某重役 (70歳) を招聘して心酔しているのは社長。辞表を出したら、この社長、「困る」 などとぬかしたので、本当に退職することにした。

1999年11月30日 (28歳)
無事退職。
先のことは考えていない。BGMは、旧制旅順高校寮歌 『北帰行』 (宇田博 作詞作曲)。なお、ジジィ連中が日本を滅ぼすと確信したので、『寮歌の極小部屋』 を再び閉鎖。

1999年12月24日 (28歳)
埼玉県志木市内で転居。
果たして、志木は安住の地となるのか?

2000年3月 (29歳)
暇を利用してイスラエルに行くことを画策するも、「新ミレニアム」 とやらで世界中のキリスト教徒がエルサレムに詣でているためホテルが満杯と聞き、すぐさま断念 (一応パスポートは取ったが)。
代わりに、新潟〜山形〜仙台旅行に出かける。

2000年4月 (29歳)
東京・浅草橋の有限会社(コンピュータ会社)に仮採用される。
なお、インターネットに常時接続されている企業に入ったのは、これが初めてだったりする。
(以前、某倒産企業の社員が会社のメールアドレスで寮歌の質問メールを送ってきたときは、ものすごく腹が立ったものだが。)

2000年6月 (29歳)
東京・天王洲の某ネットワーク系会社に常駐。
こんなコンクリートジャングルに勤務するのは、これが初めてだった。

2001年10月 (30歳)
親戚の都合により、埼玉県桶川市に転居。
モア・ルーラル。高崎線の終電が早すぎる。昼の1時間に1〜2本しか電車が無かった昔よりはマシになったけれど......。

2002年11月 (31歳)
高崎線の終電の実質繰り上げ と ゴミ指定袋 (6色8種類) に嫌気がさし、東京都北区神谷に転居。
ようやく ADSL の恩恵にあずかる。

2004年5月 (33歳)
客先である某イメージのみの軽電メーカー (●ニー) 子会社の陰湿さに嫌気がさし、天王洲の某ネットワーク系会社の常駐を終了。ソ●ーの製品は死ぬまで買わない (持っていなくても困らないし。生活必需品を作っていないメーカーなんですな。ICカード式乗車券の蔓延は気がかりだが......。ともあれ、私を上回る陰湿さの人間が、いるところにはウヨウヨいるんですね)。
常駐先変更。目黒雅叙園近くの現場へ。ここは、月曜朝に社歌が聴ける。社歌があるところは初めて。

2005年5月 (34歳)
さらに常駐先変更。通勤経路がオール地下鉄になってしまった。再び社歌のない世界に。

2006年7月 (35歳)
さらに常駐先変更。品川東口の人間排出チューブから排出される毎日に。この頃は楽水橋のたもとの楽水軒 (中華料理屋) は繁盛していたんだが…。

2008年10月 (37歳)
常駐先変更。私が北の国の将軍様ならミサイルを落とすだろう大手町のビル (通信の要衝) に勤務。

2010年3月 (39歳)
常駐先変更。昔住んでいた調布市国領にある現場へ。この頃から食後の消化が目立って遅くなってきた。

2011年1月 (40歳)
常駐先変更。将門の首塚のすぐ隣のビル (現存せず) に勤務。ここは毎朝社歌が聴けた。
●ラヤの自動うがい器とか、Google検索アプライアンスとか、昔は羽振りが良かったんだろうなあ、と窺わせる無駄遣い物体がごろごろしていた。

2011年12月 (40歳)
常駐先変更。さいたま市北部にある、群馬系メーカーのデータセンター勤務に。ここは冬が寒かった。
この頃は休日によく群馬へ行くようになった。交通系ICカードが使えないバスばかりでなかなか困った。

2017年1月 (46歳)
常駐先変更。この現場、毎日 昼飯の汁物を大音量ですする奴がいて我慢ならないので、1年半ほどで常駐先を変えてもらった。
(会社には別の理由を話しているけど)

2018年10月 (47歳)
常駐先変更。再び品川東口の人間排出チューブから排出される日々に。

2020年7月 (49歳)
東京都北区神谷の自宅アパート (トタン屋根) の暑さに耐えかねて、元の埼玉県桶川市に転居。
神谷の家で真夏に Stay Home しろと言われても断る。

現在に至る。


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